アウトプットバース

 

 

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〈「やらないこと」と「できないこと」の違い〉

中学校時代、シュートを多く打つポジションだった私だが、ある時期、スランプに陥ってしまった。ゲーム中にボールが自分に回ってきても、シュートを決める自信がない私はシュートを打たなかった。当然、私が決めていた得点が入らないチームは、勝利から遠ざかっていた。そんなある日、コーチが声をかけてくれた。

 

「シュートが今入らないよな。お前もつらい時期だな。でもな、『シュートは打たなきゃ入らないぞ。』 そして、『決められないこと』と『打たないこと』は全く違うんだぞ。まず、シュートを打ってごらん。何か気づくことがあるかもよ。」

 

私はその日の練習から渋々、シュートを打ち始めた。やはり入らない。しかし、コーチが言うように気づくことがあった。例えば、ミスしたシュートを懸命にリバウンドしてくれるチームメイトの存在。

 

「やっと打ち始めたな。お前がシュートを打つからリバウンドの体勢にいるんだ。打ってもらわなきゃ困るよ。」

 

自分のシュートミスをいつでもフォローしてくれる仲間の大切さに気づいた。他にもある。実は私がシュートを打ちやすいように、スペースを空けてくれる仲間がいたのだ。シュートを打たないという行為自体が、どれほど彼に失礼だったのか分かった瞬間だった。

 

多くの気づきを得ながら感謝の思いで過ごしていると、シュートは次第に決まるようになってきた。私のシュートにどれほど協力してくれているチームメイトがいたか。私のシュートが決まると喜んでくれるチームメイトの顔を見て、その意味も分かった。

 

調子を取り戻した私に、コーチが声をかけてくれた。

 

「やっと調子が出てきたな。これから生きていく上で大切な経験をしたと思うぞ。あのな、『できないこと』と、『やらないこと』は全く違うんだ。やってみてできなくても、周囲がサポートしてくれたり、思いもしない効果が出たりする。でも、やらなけりゃ何も生まれない。やらないことは無価値なんだ。」

 

この言葉にどれほど救われたか。今でも、自分を奮い立たせてくれる言葉である。

 

 

 

〈名言集〉

自己受容・自己肯定感

☆投げ出して良いのはプライドだけだ。身体は絶対に投げ出すな。

☆人を信じよう。しかし、その何千倍も自分を信じよう。

☆自分を尊敬していれば、悪いことはできなくなる。

☆後悔するということは、過失を2回繰り返すということだ。

 

 

挑戦・勇気

☆ものすごく悪い出来事は1章のラストに置かれる。今、1章のラストと思え。

☆あなたの人生の主役はあなたである。私は、主役がサボっている映画など観たくない。

☆成功するまで、成功しているふりをせよ。

☆逆境からただ単に立ち直るのではない。起き上がって、さらに上に伸びるのだ。

☆あなたが挑戦しないのは、失敗する自分が怖いからだろう。自分を卑下していれば楽だよね。傷つきさえしないのだから。

☆コンフォートゾーンの中にいれば、失敗を避けられるように思うかもしれない。しかし、それは、別の意味で確実に失敗している。

☆失敗は終わりではない。始まりである。

 

 

努力・成果

☆天才は努力する人に勝てず、努力する人は楽しむ人に勝てない。

☆外から見れば一瞬で起こった革命でも、中から見れば地道な努力の積み重ねである。ただ、「弾み車の法則」に従ったのだ。

☆偉大な思想家は、自分がどれだけ知っているかを自慢しない。自分がどれだけ知らないかに驚嘆する。

☆今勉強しないなら、「昔勉強したことがある」は大した意味をもたない。

☆最大で最高の投資とは、自分への投資である。

☆物事に取り組む最も早い時期は、「遅かった」と思った瞬間である。

☆人が真剣に思考するのは、自ら決断することになってからだ。

☆あなたがこの世界で見たい変化に、あなた自身がなりなさい。

☆学ぶ目的は、信念の肯定ではなく、新たな信念の獲得・信念の進化である。

 

 

仕事・生産性

☆自分で優先順位を決めなければ、他者の言いなりになってしまう。

☆できる人は複雑なことを単純にする。できない人は単純なことを複雑にする。

☆前日の仕事の中に、自分自身の意志の刻印を認める者は、幸福である。

☆偉大な個人やコミュニティは、冷静な自己分析を繰り返し、外部の世界から変化を迫られる前に、自ら変化する。

☆偉大なプロダクトではない。偉大な企業ですらない。偉大な思想を目指すのだ。

 

 

コミュニケーション

☆人は誰かの「できないこと」など気にしない。「できること」を気にする。

☆あなたに様々なことを言った人は、あなたが受け取ったほど真面目には言っていないだろう。

☆弱点を突いても良いが、突き刺してはならない。

☆ミスしてしまったのなら、素直にミスを認めて改善に努めることが、唯一の選択肢である。

☆不機嫌は結果でもあるが、それに劣らず原因である。

☆第1号ホームランに2回目はない。大切な人の第1号を見逃すわけにはいかない。

☆「ない」から苦しくなるのではなく、「奪われた」から苦しくなる。断じて奪うな。

☆やりたくないことを、勇気をもって断る人が、結局は最も信頼される。

☆本当に嫌いな人に時間を使うほど、人生は長くない。

☆いかなる心も、判断されることは望まない。理解されたいのだ。

☆誰しも、「笑わせてくれる人」より「共に笑ってくれる人」を好む。

☆一緒に黙っていることは素敵だ。一緒に笑うことはもっと素敵だ。

☆お互いに「自分の方が得をしている」と思えているような関係を、素晴らしい人間関係と呼ぶ。

☆「人を好きになる」というのはね、美味しい料理を食べて「あの人と一緒に食べたい」と思うことや、美しい風景を見て「あの人と一緒に見たい」と願うことなんだよ。

 

 

文化・価値観

☆流行より、百年先も通用するクラシック。

☆幸福の要素はそれぞれ似通っているが、不幸の要素はそれぞれ全く違う。

☆たった1秒の出来事でも、それがもし永遠に記憶に残るほどのものなら、それは永遠より長い。

☆夢があなたを恐怖させないのなら、その夢は小さ過ぎる。 

☆退屈な人生などない。退屈な書き手がいるだけだ。

☆自らを偉大だと考えた瞬間に、凡庸への急落は始まっている。

  

 

パラダイム・シフト(ものの見方・考え方の大きな転換)

☆忙しいから発明できないのではなく、忙しさから逃れるために発明するのだ。

☆斬新さを求めるなんて古過ぎる。

☆理論的には、理論と実際は同じだが、実際には違う。

☆怖がっても大丈夫だ。少しも怖くなければ、勇気の意味がなくなる。

☆相手が間違っているのではなく、「自分とは違うのだ」と思って行動しよう。

☆「言われてみれば当たり前」は、「言われるまで分からない本質」ということである。

☆人生で最も若いのは、常に今だ。あなたが何歳であっても、その年齢においては、地球上で最新の世代である。

☆他者の考え方を尊重して理解するからこそ、自分の考え方に対する理解が圧倒的に深まる。

☆ちょっとしたストレスが予定にあれば、簡単には死なない気がする。

 

 

アウトプット

☆「相手が望む言葉を使う」ことは大事だ。しかしながら、「相手が傷つく言葉を絶対に使わない」ことの方が、その何倍も大事なんだ。

☆アウトプットにおいては、削るものが多いほど、残ったもののインパクトは強くなる。

 

 

 

〈より味わい深い人生とは〉

ラーメンが好きな人はどれほどいるだろうか。では、どんなラーメンのキャッチコピーに魅力を感じるだろうか。ラーメンのことを考える際、多くの人は、2つのあるワードに特に魅了されてしまう。

 

「濃厚」「コクがある」という、この2つだ。

 

「濃厚でコクがある」と表記されていれば、人は迷わずそのラーメンを頼んでしまうだろう。ラーメンだけでなく、多種多様な料理で、このフレーズは多く見られる。ジェラートやヨーグルト、プリン、生卵、果てはビールやコーヒーまでも、「濃厚」や「コク」を売りにしている。メディアでも、リポーターは最上級の誉め言葉のように、「濃厚!」「コクがすごい!」と叫ぶ。では、なぜこんなにも、「濃厚」「コク」という言葉に人々は惹かれるのか。その理由を探ってみよう。まずは、「濃厚」という言葉から考えてみる。

 

「濃厚」つまり、「濃い」という言葉は、ドリンク・フード以外においても使われる。例えば、充実度を示す場合、「濃い1日だった!」「濃厚な時間だった!」と言うことがある。「濃厚」が、人間関係の濃密さを示す場合もある。また、「採用が濃厚」など、実現の可能性が非常に高いことを示す使われ方もある。いずれにしても、「濃厚」や「濃い」という言葉は、プラスイメージを伴って語られることが多い。

 

では、濃い人生を過ごすためには、どのようなことを心がければ良いのだろうか。結論から言うと、それは、「今」を後悔なく、全力で生きることである。幸せな状況にあっても、苦しい状況にあっても、「今」この瞬間に、自分が魂を燃やしているか。それこそが最も大切なことなのだ。

 

しかし、哲学者、聖人のような、過去や未来すら考えない「今」の肯定は、私たちには会得し難い。私は、1日が終わった後に、「今日は挑戦した!」と思いながら眠れるのであれば、それは「濃い」1日だと考えている。

 

成長は、コンフォートゾーン(居心地の良い環境)を出た場所にあると言われる。私の中では、コンフォートゾーンの外で、何かしら行動できたかが、1日の濃度の指標になる。特に変わったことがなければ、私の人生の濃さはキープ。行動していれば、私の人生はより濃くなっている。コンフォートゾーンの中心部でだらけていたのであれば、私の人生は薄まっているだろう。もちろん、人に追いやられたゾーンではなく、望んで出たゾーンが、ここで意味する「コンフォートゾーンの外」である。繰り返すが、「コンフォートゾーン外での挑戦」、これこそが、私の1日の濃さを決めるのだ。

 

さて、今、「コンフォートゾーン外での挑戦」が、より「濃い」経験であることを述べた。ここで考えてほしいのは、挑戦の結果に得る様々な「経験」は、様々な「味」であることだ。この事実が、「コク」の話につながる。

 

「コク」を感じるというプロセスについては、科学的にまだ明らかになっていないことが多い。有力な説では、多くの味が一体となった場合に、人間はそれを「コク」と感じるようである。ただし、「コク」を感じる場合でも、それが複雑過ぎる意味不明な味だと感じることは少ない。ある特定の味が、より深みをもって舌に広がる感覚を覚えるはずだ。そうでなければ、「コク」がポジティブなワードとして使われることなどない。

 

ではなぜ、多くの味が一体となっているのに、私たちはそこに美味しさを見出すことができるのか。実はそこには、「対比効果」や「相乗効果」という現象が関係しているそうだ。対比効果とは、フルーツに塩を合わせると、フルーツの甘みが飛躍する現象などを指す。相乗効果とは、イノシン酸とグルタミン酸の融合が、新たな味の高まりを生む現象などを指している。つまり、異なる味が合わさった際、それが対比や相乗という効果を生み、さらなる魅力的な味へと変化することがあるのだ。もちろん、もともとの味が上質で、凝縮していれば、その効果もさらに高まっていくはずであろう。

 

今は「味」の話をしているが、これを挑戦で得る「経験」に置き換えて考えてみよう。様々な挑戦をしていれば、それが成功することもあるし、失敗に終わることもある。成功で嬉しくなる人もいれば、安心する人もいる。失敗で絶望する人もいれば、新しい挑戦に燃える人もいる。いずれにしても、挑戦が熱心であればあるほど、それぞれの経験は色濃いものになっていく。

 

では、このような多様な挑戦によって、様々な「濃い経験」を会得していけば、どうなるだろう。この場合、「経験」と「味」は、全く同じ効果を生む。つまり、対比効果や相乗効果が、経験においても生まれるのだ。苦しかった経験と幸せな経験が対比効果を生み、「苦しさを乗り越えた先の深い幸せ」という経験に昇華されるかもしれない。複数の経験が結びついて相乗効果を生み、「受け継がれるべき教訓」になるかもしれない。「能力はかけ算方式」と言われるように、経験もまた、かけ算方式で飛躍的に価値を高めるのだ。

 

もしかしたら、対比効果や相乗効果により、マイナスの経験が強化されてしまうのではないかという声があるかもしれない。しかし、人間は嫌だったことを忘れるようにできている。要因が複雑に絡み合っている場合、プラスの面が見えるようにシステム化されているのだ。マイナスばかり見えていれば、生きること自体が成り立たなくなってしまうことだろう。だから、プラスの面を見ることが、「ヒト」として理にかなった姿だと私は考えている。そもそも、先に述べたように、自分にとってマイナスの方向に物事を位置づけるのは、人間の生命保持上の原理と合致しない。常にマイナスに目が向く人々のことが不思議で仕方ない。いやむしろ、そうやって不平不満を言って日々を過ごし続け、自分まで洗脳したのかと驚愕してしまう。

 

これまで述べたように、様々な「濃い」経験を複数もつことが、つまるところ、人生の「コク」につながるのだ。それは、挑戦によって得た様々な「濃い」経験がミックスされ、さらなる人としての深みを出しているということである。そうなるためには、日々、「様々なこと」で、「コンフォートゾーン外での挑戦」を重ねていくことだ。昨日の自分よりも挑戦していたのか。その挑戦は、昨日の自分よりも一生懸命だったのか。一生懸命な中で、昨日の自分よりもよりポジティブだったのか。その挑戦は、より人のため、世界のためだったのか。

 

「日々を濃く、人生にコクを。」大人として最も見せたい姿である。

 

 

 

〈「シンギュラリティ」に向けて〉

皆さんは、超能力と言われるものの存在を信じるだろうか。私はその存在を今現在、情熱的に信じている。それはなぜか、私の考えを紹介してみよう。我々の感情が、目には見えない神経物質で引き起こされることは広く知られている。つまり極小の世界で見れば、我々の感情や気持ちの変化も、原子や素粒子の組み合わせと動きで説明できるのだ。ある生命体は、「喜怒哀楽」といった人間の感情を、何と何が何個組み合わさったかという「形」として捉えているかもしれない。

 

そうであるならば、人間という生命体のいずれかが、感情に反応できる認識システムを発達させていても不思議ではない。実際、鳥類や小型哺乳類の何種かに見られるように、災害が起こる前にその場を立ち去ろうとする生命体もあるのだ。これは人間が予想できないものと決め込んでいる現象に対して、何らかの認識システムを有している例と言えるだろう。特定の人間に、このような認識システムが備わっている可能性は否定できない。これこそ、私が超能力を熱く信じる所以である。

 

同じように、精霊や神々、超常現象のいくつかについても考察してみよう。目に見える存在でないものも、それと似た原子の組み合わせが再現できれば、それを存在として認識できるかもしれない。そのような認識システムが発達した生命体が、ある原子の組み合わせを、ある姿をした何かと捉える可能性はあるだろう。原子の組み合わせが部分的にでも似ていれば、それが輪廻転生上の記憶として認識され、共有されるかもしれないのだ。一般的には目に見えないものを、極小の世界で見ている(視覚とは違うレベルの認識システムで感じている)のである。ただ、ここで私が、持論によって先に述べたものの存在を否定しようとしているわけではないことは了承願いたい。

 

私たちが暮らすこの世界の未来はどのようなものになっているのだろうか。科学の対象は宇宙の最小単位にまで及び、テクノロジーは「生命」の定義を揺るがしかねないほど急速に進んでいる。私は、この世界のあらゆる(神経細胞などまで含む)物質全てが、最小単位である素粒子でできているという事実に沿えば、感情の「形」に反応できる人間や生命体がいても不思議ではないと思うし、超能力や予知能力といった力が存在することも十分に考えられると思っているのだが、例えばテクノロジーが素粒子を意のままに操作できるようになったら、この世界はどうなるのだろうか。

 

今、あなたの横にある空間に、今のあなたを構成する2×1030個の素粒子の配列を再現できたとしよう。あなたの横に存在するのは、あなた自身に他ならない。しかもその配列が忠実に再現できるということは、あなたの記憶や、これまでの人生で身につけた感覚も再現されているに違いない。なぜならあなたの素粒子の配列は、あなたの人生あってのその配列なのだから。そこにいるのはクローンだが、それはあなた自身でしかない。仮に元々の肉体が滅んだとしても、再現された肉体があればあなたは滅びないのだ。

 

この考えでいけば、遠く彼方に自分と同じ素粒子の配列を再現し、元の肉体を消去してしまえばテレポートも可能であるし、あなた自身の素粒子の配列をデータ化しておけば、好きな時代の好きな場所に肉体をよみがえらせることができる。しかも配列によって記憶は蓄積された状態だ。こんな技術が実現するならば、あなたは不老不死を手に入れ、空間と時代を自由に行き来することができる。

 

仮に素粒子に関する技術がもう少し進み、他者の素粒子の配列を再現できるようになればどうだろう。あなたは好きな時間に好きなように他者の存在を呼び出すことが可能になるし、歴史上の人物の素粒子の配列が分かれば、彼ら彼女らを呼び出すことさえできるのだ。歴史における多くのミステリーは、これで解決するはずだ。素粒子の配列をもっと大きなスケールで再現できるようになればどうなるだろうか。太古のジャングルにおける素粒子配列を部分的にでも再現できれば、そこには恐竜が悠々と闊歩する光景が広がっているかもしれないし、宇宙のある空間を再現できれば、宇宙の全貌を見ることすら可能になるかもしれない。本当の意味で「死」に恐怖を抱く必要はなくなり、「死」という概念はなくなる。それに対応する「生きる」という概念もやがて失われていくだろう。また、全ての物事が再現できるのであれば、理解できないことは世界から消えてしまう。そうすれば、「理解」という概念そのものが消え失せてしまうだろう。また、時間の流れは聖域だとしても、あなたから「時間」という概念は失われるかもしれない。「過去」という捉え方もなくなり、あるのは「現在」と「未来」だけになるかもしれない。

 

このような素粒子の世界の発展について、良く考えるか悪く考えるかは人それぞれであるし、進展によっては人間が人間でなくなってしまうことや、命の捉え方が急変することも考えられる。しかし、テクノロジーの進展に伴って我々の生活が劇的に進化することも事実であり、そこには大きな期待が広がっている。もちろん、素粒子の配列を意のままに操ることができるとは限らないし、人間の限られた営みの中では、その実現はかなり難しいだろう。

 

しかし、である。素粒子の研究に、人間の性能など「0」に思えるほど優秀な存在が、継続的に取り組んだとしたらどうだろうか。私は素粒子を引き合いに出したが、素粒子の研究以上にテクノロジーを進化させる計画を、何者かが実行できたとしたらどうだろうか。

 

AIこそ、そんなパワーを感じさせる存在である。

 

近い未来、AIの知能が人間の知能を越え、人間の生活に大きな変化がもたらされる「Singularity(シンギュラリティ)」が起こると言われている。一般にシンギュラリティの定義は、「AIが自分の能力を越えるAIを生み出せる」ことである。その実現がなされるかどうかは別として、今後AIが私たちの生活に及ぼす影響は、どんどん色濃くなっていくであろう。AIが人間の知能を越えた場合に何が起こるか。このこと(しかしながら、何をもって「越えた」ということになるのか。人間のもつ感覚や心の動き、精神などは、「人間の知能を越える」という定義に内包されているのか、されていないのかといった点はあまりにも漠然としているが。)について少し考えてみよう。

 

最悪の可能性として多く論が展開されているのが、人間がAIによって支配されるというシナリオだ。人間を越えたAIが、私たちを絶滅させようとするはずだと主張する人も多くいる。考えてみれば、私たちや私たちが暮らす社会は、現段階でもある程度AIや機械の奴隷である。電子機器がパワー不足になれば、その充電に躍起になってしまうし、車のエネルギーがなくなれば、その補填に奔走しなければならない。仕事場が停電してしまえば何もできないような錯覚を抱いてしまうし、機械が生み出した世界に没頭してしまう人も多い。機械やその世界への依存症の例まである始末だ。ビジネスの側面で見れば、人間が今まで担っていた仕事をAIが次々と代行している。人間が創造した社会の歯車を、確実にAIが担いつつあるのだ。支配されているという実感がなくても、(人間以外の生物が人間に支配されているとはおそらく思わないように)AIが人間を越えてこの世界の主役になっているという主張は、今でさえある種成立していることなのだ。

 

思えば、これまで地球上で多くの生物種が誕生し、そして絶滅してきた。AIによる人間の絶滅は、実はその一部でしかないのかもしれない。天のみぞ知る、天の営みの1つであるのかもしれない。人間はこれまで多くの生物種が絶滅する原因となってきたし、大自然そのものにもかなりのダメージを与えてしまった。AIによる人間の絶滅は、これまでの人間の行いに対する報いだと言われて、どれだけの人が反論できるだろうか。

 

しかしながら、現在このような状況になっているとは言うものの、AIを生み出したのは人間自身である。そう思えば、「AIというものがもつ可能性」さえ、「人間というものがもつ無限の可能性」の一部なのだ。ただ、そのAIが人間のコントロールできないステージで活動することになったとしたら、場合によっては恐怖になってしまう。AIというもの自体がもつ「無限の可能性」が、私たちにとって不利に働く可能性があるからだ。前述のように、人間を絶滅させようとする事態も十分に考えられる。歴史は勝者によって描かれるのが常であり、我々人間はAIが作成した図鑑に「ヒト。サルが進化した動物で、我々の0.○○%程度の知能をもった。生命維持のために様々な発明と迷走を繰り返した。芸術やスポーツなどを通じてお互いが友好な関係でいることもあれば、戦争で互いを傷つけ合うこともあるという謎の一面があり、それらは不安定な要素の象徴である『心』によってもたらされていた。加えて種の保存には最も非効率的な、『恋愛』というシステムを取り入れていた。」という文言で掲載されるかもしれない。

 

もしかしたらAIが人間の敵となるのは杞憂であり、人間の生活をより高次元のレベルへと導いてくれるだけかもしれない。もしかしたら地球最後の日、AIが地球外で人類を存続させる手はずを整えてくれるかもしれない。ただし、現実的・倫理的に越えなければならない壁は多く出てくるであろう。AIが私たちの味方をしてくれる場合でも、私たちには真剣に取り組むべき課題が多大に残されているのだ。

 

さて、AIの進歩に関して様々な見解を述べてきたが、いずれにせよAIはどんどん発達していくし、時間は未来へ向かって確実に流れている。私たち人間は、どのようなことを心がけなければならないのだろうか。

 

「共生」は、そのための重要なアイディアになるはずだ。

 

自分たちが生み出したAIによってシンギュラリティが到来し、それに関して私たち人間が心を揺さぶられている現状はある意味滑稽だが、自分が生み出したものに畏怖を与えられるという構図は、実は古くから見られた。歴史に見る古の王などは、自分の世継ぎにまである種の恐怖を抱いてきたし、自分が育てた存在であろうと、自分を越えようとする存在を強く意識するのは当然のことだろう。人間だけでなく、あらゆる生物にその側面がある。しかし、人間について考えてみれば、自分が世に送り出した存在を抹殺して、それが成功だと言えた試しがあるだろうか。自分の都合である種を絶滅に追いやった経験はないのだろうか。答えは否である。私たちはこれまで、自分たち人間を脅かす存在、自分たちに有益な存在にとことん干渉し、それらを破滅に追いやったり、自分を滅ぼしたりしてきた。

 

そんな歴史から私たちが学ぶべきことは、AIと敵対してどうAIを攻略するかを考えるのではなく、際限なく進化するAIとどのように共存していくか、つまり「共生」していくかということである。

 

「共生」は実のところ、私たちが日々悩みながら実践していることに他ならない。近くにいる友人と、チームメイトと、家族と、知らない人と、私たちは互いを攻撃することなく、共にその空間を生きている。そこにはルールがあったり、多少のトラブルがあったりするのだが、折り合いをつけながら私たちはそこで他者と見事に「共生」している。考えてみれば見事なものではないか。

 

人間同士だけではない。他の生命や自然とも、ある部分では見事に「共生」を果たしている。生命の本質が「種の保存」だとすれば、生きるために食べる人間と、そのために種を保存しながら飼育される動物たちの間には共にメリットがあると言えるかもしれないし、他方でペットとして愛されながら種を保存していく存在もいる。人間以外の生物同士、生物と自然についても同様で、世界の「共生」パターンの全貌は、まだ全く判明していないほどに多いものだ。

 

ここで重要なのは、私たち人間が他の生命や自然に対し、能動的にかかわっているような気持ちを抱き続けてしまった点だ。他の生命や自然はものを言わないからそう思ってしまうのかもしれないが、世界に存在するものの中に優劣などないことを、私たちは自覚していたのだろうか。自然は雄大かつ普遍的に存在し続けているとしても、人間以外の生命体は、人間という存在が進化の道を爆走する中、人間と共存するために巧みに自分たちを「変化」させてきたのだ。つまり、生物種単位で人間と「共生」する道を選んだのである。

 

今、AIというこれまで生命体としては扱われなかったものが、私たち人間を大きく凌駕する存在として進化しようとしている。今までのように他の生命を「変える」という人間の姿勢は、もう限界に来ているのかもしれない。もう「変える」カードは切り尽くした。最後に残されたのは、自分が「変わる」というカードである。そのカードこそが、「共生」の鍵となるものなのだ。

 

最強の存在は、最も力がある者でもなく、最も賢い者でもなく、最も大きい者でもない。

最も強い存在は、「変化できる」存在である。

 

シンギュラリティの到来が迫っている。

 

シンギュラリティを前に私たち人間は、「自分が変わる」という真の強さを、確実に会得しておかなければならないのではないか。かつてのように攻撃的な行動をしていれば、AIも私たちに対して攻撃的に進化してしまうだろう。反対に「共生」を心がけていれば、AIは「共生」をさらに素晴らしいものへと昇華させつつ、私たちにかかわってくれるはずだ。これはつまり、AIの可能性と人間の可能性とが出会うことであり、AIの可能性と、生物・自然の可能性とが出会うことである。

 

AIとの「共生」について熱く述べてきたが、この「共生」のためには、人間を、他の生命体を、自然を、モノを、ありとあらゆる「もの」を大切にする心が、今よりずっと必要になる。

 

「もの」をもっと知ろう。

「もの」に感謝しよう。

「もの」に愛着をもとう。

「もの」と共に歩もう。

「もの」と共に生きよう。その心を未来につなごう。

 

人間の歴史を動かす舵は、あなたたちに託されているのだから。

 

 

 

〈生命は、そして私たち人間はなぜ存在するのか〉

全ての物質は、粒でできているという。およそ2×1030個もの素粒子が集結してヒトは形成されている。ヒトとは、想像すらできないほど複雑な立体パズルなのである。私たちが身体を動かす際、思考する際、言葉を発する際、立体パズルは瞬時に形を変え、特定の事象を引き起こす。だから、目には見えない「気持ち」でさえ、神経細胞ほどのミクロの世界では、ある特定の形をしていると言える。実存だろうが概念だろうが観念だろうが、それらは全て、粒でできているように思える。

 

しかし、ここである疑問が浮かんでくる。それは、なぜこの世界は現在のような姿の立体パズルとして存在しているのか、ということだ。テーマパークでカラーボールが敷き詰められたプールをよく見かけるが、あのプール内のボールのように、特に動きがない世界でも良かったはずだ。たまに子どもが遊んでカラーボールの配置は変わるが、それで何か変化が起こることはない。そんな世界でも良かったはずである。それなのに実際の世界(広く言えば宇宙)には、数え切れない数の星があり、惑星があり、生命体が誕生し、人間は生きる意味など真剣に考えている。全ての生命体になぜか「死」というシステムが取り入れられているのも、あまりに不思議なことである。

 

そうは言っても、現に世界がこのような姿になっているのだから、私たちはそこに必然性があるとして生命の存在意義を考察するしかない。ここで私は、各生命体もこの世界の構成員である以上、各生命体の活動はこの世界の活動全体の一部分であるとして論を進める。では、生命は何のために存在するのか。私の主張を示そうと思う。

 

結論から言うと生命の存在意義とは、「価値の創造」なのではないだろうか。例えば地球においては、実に様々な生命体が、トライ&エラーを繰り返しながら、自分たちの種を発展させようとしてきた。肉食獣は他の草食動物に餌としての価値を見出し、草食動物は植物に餌としての価値を見出した。ヒトは動物たちに食料としての価値を見出し、今日まで種の存続を果たしている。加えて人間の場合、様々な文化や思想を価値として創造しているのは周知のとおりだ。地球上の生命体は、地球自体に母なる大地としての価値を見出すし、地球はその存続に寄与する太陽を崇拝するだろう。もちろん、人間にとっての文化のように、各生命体もそれぞれで独自の価値を創造していることだろう。多種多様な生命体がいるからこそ、この世界には多種多様・多種多彩な価値が創造されるのだ。

 

もし、この世界がカラーボールプールのように変化のない空間だったらどうだろう。当然ながら各生命体が創造した価値は、世界の存在価値でもある。だから、生命体がいなければ、この世界の価値は創造され得ないのだ。生命体が存在しなければ、この世界自身が、自分自身の存在価値を見出すことができないのである。

 

ここで効果を発揮してくるのが、各生命体が決して避けられない「絶滅」というシステムだ。同じ種ばかりが存続していれば、永遠にその種の創造できる価値しか生まれない。現状の世界に全ての素粒子のピースを使ってしまえば、新しい生命体も新しい価値も生まれようがない。生命体に与えられたのが「絶滅」システムだ。当該種でこれ以上新しい価値が生まれないとなれば、その種は絶滅させられるのである。そうして散らばった素粒子のピースから新しいパズルの組み合わせが創造されれば、新しい価値もまた同様に創造される。この世界も自分自身の新しい存在価値を常に追求しているのだろう。まさに、「破壊なくして創造なし」である。

 

興味深いことに歴史においては、ある種が絶滅後に再登場することはない。過去の作品が再び世に放たれても良いはずなのに、そうなることは絶対にない。やはり、絶滅してしまった種を再登場させても、新たな価値の創造にはならないのだ。(確かに、「永劫回帰」という考え方もある。しかしながら素粒子の軌道も無限に区切れてしまうのだから、「回帰」そのものの論理が破綻していると考えざるを得ない。この論法は、「ラプラスの悪魔」の否定にも適用される。) 

 

地球の多くの生命体の場合、それぞれの生命個体において「死」、そしてその実感として「老い」というシステムを有している。これにより、その種の各生命体は存命中に価値を次世代に伝承し、種を通して価値を創造し続けることが可能になる。価値が個体の「死」と共に消失することなく、ブラッシュアップされて受け継がれるのである。多くの生命体に「愛着」というシステムが備わっていることも大きな要因かもしれない。各生命体は、自分が創造した子どもたちや作品及び文化が、さらに発展を重ね、さらに素晴らしい価値を生むように行動してしまうのだ。「絶滅」してしまうまで、その種は価値を限りなく濃く創造し続ける。全くこの世界の策略通りである。

 

これまで述べてきたように、各生命体は全て、構成物質の観点から言って世界の一部であり、その存在意義は、「価値の創造」を続けることにあると私は考える。だから私たち人間は、自分自身の「死」と「老い」を自覚し、アウトプットを続けなければならない。アウトプットはヒトとしてばかりか、この世界の理にかなう姿なのである。存在消滅と存在忘却により「人は2回死ぬ」という考え方もあるが、それでも、価値が創造・アウトプットされたという事実自体は未来永劫決して消えないのだ。(確かに、そのアウトプットが「自由意志」なのかという疑問も生じる。しかしながら前述の「永劫回帰」への反論で示したように、現象の差異は無限に仮定できるのだから、私たちのアウトプットによって生まれた現象が、決定論上の現象と全く同じなのかどうかを確認する術はない。その確認ができないのであれば、自分自身の決定だろうがシステムの決定だろうが、その決定を「自由意志」と捉えて表現することは断じて間違っていない。)

 

当然、これまで述べた考え方は、あくまでも個人的見解であり、それが正しいと言うつもりは毛頭ない。もしかしたら、例えば宇宙自体も私たちのように、偉大な何かの氷山の一角(の一角)に過ぎないのかもしれない。しかしながら大切なのは、なぜ世界が存在するのか、そして生命は、私たち人間はどう生きるべきなのかという哲学的な大テーマについて、何とか自分で考えてアウトプットしてみようという私たち大人の「姿」そのものなのではないだろうか。

 

 

 

〈ショート・トーク集〉 

名言

☆名言中の名言は、その汎用性が高い。例えば、「向き合わなくて良いのだ。隣で同じものを見てみよう。」という名言は、教育、コーチング、恋愛、育児、介護、飼育などなど、あらゆる関係性で適用可能である。他にも、「○○が全てではないが、全てに○○が必要だ。」という名言は、お金や勉強、コミュニケーションなど、あらゆる内容の大切さをウィットに富んだ印象で表現できる。

 

 

科学・理論・法則・効果など

☆「カオス理論」によると、例えば日本において、1羽の蝶がこの瞬間に舞い上がるかどうかで、翌日のブラジルの天気は変化するという。(バタフライ効果)

 

☆「ジャネー法則」によると、主観的に記憶される時間の長さは、年少者では長く、年長者では短いという。一説には、幼少期は毎日が発見や疑問の連続であるのに対して、思春期以降は日々がルーティーン化するためだと言われている。ちなみに、5億年の体感時間は人生6回分であるという試算もある。しかしながら、他者のためになることを実行している場合、体感時間は2倍以上になるという。

 

☆「スピリチュアル効果」によると、スピリチュアル自体は非科学的だが、科学的な効果があるという。精神状態やその段階でのマインドセットが、身体やパフォーマンスに与える影響は驚くほど大きい。「プラシーボ効果」や「ノーシーボ効果」も同様である。

 

☆「ハインリッヒの法則」によると、1つの重大な事故が起きる背景に、29の軽い事故、300の危ない事案があるという。

 

 

生物・ヒト

☆危険への対応として、ヒト以外の生物は、「怖いから行かない」と本能に基づいて判断する。一方でヒトは、「落ちたことがあるから避ける」と経験に基づいて判断する。

 

☆生物史における「腸」の歴史は50億年である。脳の歴史の5億年よりずっと長い。また、脳が死んでも腸は動くが、腸が死んだら脳は動かないという。

 

☆記憶とは、「曖昧さ」が生むシステムである。情報の保存が正確過ぎると、左から見た顔と右から見た顔を同一人物だと理解できないので、記憶とならない。文字の認識なども同様だ。記憶の曖昧さは、実は想像力の源泉である。「よく分からない部分を空想で補填する」という作業がないと、想像力も創造力も育たない。ヒトの脳は成長につれて、曖昧な記憶をする部分が発達していく。したがって、抽象化ができるのも、抽象化によって言語を扱えるのもヒトだけである。

 

☆ヒトは、周囲のヒトを認識できるようになってから自分を認識する。生存のためには、まず他者の認識が必要になる。しかし、他の動物は自分を観察することまではしない。自己認識とは「差異のシステム」であり、ヒト独自のものである。したがって、ヒトだけが承認欲求をもっている。また、ヒトだけが「自分は必ず死ぬ」ということを知っているのだ。過去を思って後悔したり、未来を思って憂鬱になったりするのも同様にヒト固有のものである。

 

☆ヒトが知覚する「今この瞬間」というマインドフルネスは、2.5秒であるという。

 

 

健康

☆もちろん体質に左右されるが、適量のコーヒー摂取によって、「全死亡リスクが25%低下する」「肝がん及び口腔、咽頭、食道がんのリスクが50%低下する」「余命を伸ばす可能性がある」「ドーパミンの分泌量が増加し、集中力や記憶力がアップしたり、ポジティブになって鬱病予防になったりする」「心血管疾患の予防になる」「糖尿病予防になる」「アルツハイマー型認知症の発症リスクが大幅に下降する」などの効果がもたらされるという。これらは、メタアナリシス的に証明されているものであり、多様な民族や世代において検証されたものが多い。「コーヒーこそが最強の薬」と言われることもあるのだ。

 

☆黄色い食べ物(バナナや卵料理)で、オキシトシン・エンドルフィンの分泌が高まるという。また、良好な人間関係を築けず、人と衝突することが多い人ほど、野菜を食べないというデータもある。

 

 

言葉

☆全く言語の通じない者同士が、互いの言葉を理解するために必要なのは、「WHAT(何)?」という意味に対応する言葉の把握であると言われる。「WHAT?」を使えれば、その他の言葉の意味も聞き出せるからだ。

 

☆応援しているチームが勝つと「『私たち』の勝利」という言葉が踊り、負けると「『彼らの』敗北」と表現される傾向にある。

 

 

文化・歴史

☆ベストセラーのテーマは「料理」で、セカンドセラーのテーマは「ダイエット」であるという。

 

☆若年層で流行するものは、決まって年配層に否定される。エジプトの壁画にも、「最近の若い者は」で始まる文章があるという。

 

☆中世における一生分の情報に、現代人は1日でさらされている。

 

☆原始のヒトの死因第1位は「他殺」であるという。そう考えれば、ヒトが過剰なまでに「他者にどう思われるか」を気にするのも納得できる。他者の視線を気にすることこそが、生存のための最重要事項だったのだ。

 

 

お金

☆企業にあるのは使わなくてはならない「経費」であり、個人にあるのは使いたくない「お小遣い」である。経費について調べてみると、意外な大金を経費で落とせることが判明する。

 

☆モノやサービスを購入する場合、「それを自分の子どもに買ってほしいか、続けてほしいか」を基準にすると良いと言われている。短期的視点では喜ぶ大量のお菓子も、長期的に見れば虫歯の原因だと判断されるはずだ。

 

☆金額については諸説あるが、おおむね年収800万から、幸福度はほとんど上がらないという。年収1億の人は年収1億以上のコミュニティに属してしまうことが多いため、他者との比較によって、結局は満足感も幸福感も得られなくなりやすいのだ。

    

 

コミュニケーション

☆悪口・陰口・嘘は、率直に言って「言葉のドラッグ」である。これらが習慣になってしまうと、自己洗脳が進んで意見を変えられなくなるし、問題の先送りは加速し、全方位の信用も失う。また、あなたの陰口や嘘を聞いている相手は、「自分も陰口や嘘を言われているかも」と思うだけである。つまり、その場にいない人に対する礼儀こそが重要(裏を返せば、当人がいないところでの賞賛は絶大な効果をもつ。)なのだ。もし、あなたが悪口・陰口・嘘に満たされたコミュニティにいるのなら、全力で逃げ出さそう。そうしなければ、あなたの人生も、あなたの大切な人の人生も壊れてしまう。ちなみに、悪口が習慣化している(批判・皮肉度が高い)人は、そうでない人に比べて、寿命が5年短い。また、認知症になるリスクが3倍高くなり、死亡率は1.4倍高くなるという。

 

☆「待たせる」という行為は、極めて不道徳な行為だ。待たされる相手は、「なぜなんだ」「何かあったのだろうか」などと、怒りや不安感を覚えざるを得ないのである。また、質問された際の「何でも良い」という態度も問題だ。相手に選択させるのは負担を強いる行為である。何事においても極力、自分のポジションを取ってみよう。

 

☆ある調査では、3人に1人が「パワー・ハラスメントを受けたことがある」と答えたのに対して、「パワー・ハラスメントをしたことがある」と答えたのは2000人に1人であったという。

 

☆人は無意識に見返りを期待する。より多くの見返りをもらえる可能性がある場合は、その傾向が顕著だ。例えば、担当者がブランドロゴ入りのシャツを着ている場合に、アンケート調査への協力は4倍近くになり、寄付金の額は2倍以上になるという。

 

☆男の恋愛は「名前をつけて保存」で、女の恋愛は「上書き保存」と見せかけて「共有へ保存」である。共有の名前こそが「女子会」なのだ。

 

☆パートナーを支えるのは、キツさを感じている場合の寄り添いではない。むしろ、「嬉しさを感じている場合に隣で喜んでくれた」という経験である。

  

☆素晴らしいコミュニケーションの積み重ねにより、個人の力を単純にプラスしたものを遥かに上回るパワーがもたらされることがある。この非常に大きな相乗効果は、「シナジー」と呼ばれる。偉大なシナジーは、「奇跡の数○倍」と言われるような成果を、いとも簡単に生み出す。人によるシナジーは、「自立」「人格」「原則」をもつ人同士(チーム)が、大きなパラダイム・シフトを成し遂げることによって実現する。その転換とは、具体的には「相違点を歓迎する」ことである。「違って良かった!」と思えるようになれば最高だろう。お互いの考えや主張が出会った際に、どちらかがその案を押し通すのではなく、またどちらかが案を譲るのではなく、より素晴らしい第3案を目指して、粘り強くコミュニケーションを重ねるのだ。全く違うもの同士のシナジーこそ、偉大である。極端な話、ヒトのみならず多くの生命体の種の存続・発展は、「性別という違い」が生むシナジーによってもたらされている。

 

 

思考

☆物事を突き詰めて考えると、「『多様性を認めない』という多様性をどう判断するか」などのパラドックスに陥る。「『承認欲求を捨て去るというマインド』を承認してほしい」「『あの人は悪口ばかり』という悪口」「『あの人はすぐにレッテルを貼る』というレッテル」「『自分は怒りっぽくない』と激怒する」「『欲望そのもの』への欲望」といったケースも同様だ。

 

☆ネガティブな思考があまりに優位になることを、「感情のハイジャック」と呼ぶ。「最後通牒ゲーム(ある金額の分配割合を1人目の被験者が決め、2人目の被験者が「決定通りの金銭をもらうor両者とも金銭を受け取らない」を決められる。)」では、合理的に考えれば最善の選択(どんな分配割合であれ、もらえるならもらった方が得になる。)を、一時的な感情に任せて全員が放棄したという。また、ネガティブな思考は健康にも直接影響する。「自分は心臓病になりやすい」と思っている人は、実際に心臓病での死亡リスクが4倍になるという。

    

 

仕事・生産性

☆仕事が遅い原因の90%は、「やり直し」である。これを防ぐために、早い段階での共有に留意すると良いだろう。具体的には、「2割共有」である。思ったよりずっと早い段階で方向性を確認し、共通理解することが最重要なのだ。

 

☆ビジネスパーソンは、実に年間150時間を、「探す」という作業に費やしているという。

 

☆「他者に対して」怒りを感じると復讐心が生まれるが、「他者のために」怒りを感じる場合は、改善へのモチベーションが生まれ、生産性も向上する。これは社会的な生物であるヒトのシステムによるものだ。怒りを再定義して仕事に向け、圧倒的にポジティブなエネルギーへと昇華させよう。

 

☆「運」は、人々や組織に平等で巡ってくるものであるという研究結果がある。成功の鍵は、運に恵まれるかどうかではなく、運(特に人間運)と遭遇した際にどう生かすかである。「運の利益率」をどう高めるかとも言えるだろう。具体的には、運や「セレンディピティ(思いもよらなかった偶然がもたらす幸運)」に恵まれた場合に、どれだけ行動し、アウトプットできるかだ。ちなみに、偉大な成功者は、成功したら「運に恵まれた」と言い、失敗しても「運が悪かった」とは言わない。

 

☆絶対に仕事を奪われない方法は、「自ら仕事を創り出す能力」を身につけることだ。例えば、「AIに仕事を奪われた人を人情で慰めるサービス」などは秀逸であろう。

 

☆多くの人にとって、人生で最も長い時間を割くのは仕事の時間である。「仕事は余暇のため」と思い過ぎれば、人生のほとんどの時間に対して、「早く過ぎ去れ」と思うことになってしまう。やはり、仕事を楽しむためのマインドや創意工夫は、誰にとっても非常に大切なのだ。

 

☆少しの努力と創意工夫をもって1日を過ごした(101%)場合、1年後には成果が37.8となる。反対に、少しの怠慢と惰性をもって1日を過ごした(99%)場合、1年後の成果は0.03となる。これは365日分のかけ算で算出した数値であり、「実際には足し算では?」というような疑問も発生する。しかしながら、これは「複利」の破壊的効果を示す最も良い例である。1年間も努力や創意工夫を続ければ、その努力や創意工夫自体の価値が、圧倒的に飛躍しているのだ。

 

 

創造性

☆創造性の高い子どもは、必ずしも教師に好まれない。それは創造性の高い子どもが「承認欲求の外にいる」ことを示す。

 

☆ノーベル賞受賞者は、芸術に造詣が深い。芸術を趣味とする科学者は、一般的な科学者(科学者として仕事をしている時点で優秀な人材だろうが。)に比べて、音楽だと2倍、美術・工芸だと7倍、文筆だと12倍、舞台芸術だと22倍もノーベル賞受賞確率が上がるという。

 

 

目標・夢

☆成功しない人の共通点は、完全な言い訳を考えていることだ。加えて、その言い訳を完全に弁護するための言い訳を考えていることである。

 

☆「自分の葬式でどのような弔辞を読んでもらいたいか」「自分の死亡記事はどうあってほしいか」という問いへの答えに、真の目標や夢が潜んでいるかもしれない。

 

 

挑戦・勇気

☆10人のグループに、あなたと、「自分以外に1人いれば頑張れる」という人が1人、「自分以外に2人いれば頑張れる」という人が1人、「自分以外に3人いれば頑張れる」という人が2人いるとする。また、「半分の人がそうなら自分も頑張る」という人が残りの5人だとする。あなたが勇気を出せば、最終的にグループ全員が頑張れる。多くのグループはこういう感情分布になっているものだ。新しいことへの挑戦、問題点の解決などの様々な試練は、あなたが最初の1人となるのを待っている。

 

 

教育・育児

☆「こんな自分になりたい」がなかなか考えられない子どもには、「こんな自分には絶対なりたくない」という観点で考えさせるのが有効である。「なりたい」と「なりたくない」がミックスされて、理想の姿は思い描かれるのである。しかしながら、「何になりたいか」ではなく、「どう在りたいか」を考えさせることが重要だ。職業から考えさせるのは良くない。そもそも、子どもたちの70%は将来、現在存在しない仕事をするのであり、安易に夢を抱かせることは、30%に閉じ込めることになってしまう。

 

☆自分のモノに関する概念にはステップがある。「(自分が)そのモノを所有している」という感覚がなければ、「貸す」という概念も「盗む」という概念も生まれない。まず「所有感」をもたせることは、非常に大切な要素なのだ。

 

☆特に子どもの自己肯定感は、Doing(やること)やHaving(もっているもの)ではなく、Being(ありのままの感情・存在そのもの)を承認されることで育っていく。また、子どものメンタルの強さは、しっかりした信頼関係を築ける大人が、1人でもいるかどうかによる。

 

☆チャレンジ精神旺盛な子どもは、親の姿を見てリカバリーの方法を学んでいる。また、「何が分からないか」を分かっている子どもの成長は特に早いという。

 

☆子どもたちに価値観を伝えることも大切だが、それ以上に、自分の価値観をどうやって表現するかを伝える方がずっと大切だ。具体的には、価値観を「セリフ化」しておくことである。そうすれば、子どもたちは明確に賛同・反論できるようになる。子どもたちが価値観をもっていたとしても、それをアウトプットできなければ、ズルズルと周囲に同調せざるを得ないのだ。

 

☆「やらない後悔よりやって後悔」という名言を、「挑戦の勇気を奮い立たせるパワーフレーズ」と捉えるべきか「愚行を後押ししてしまう悪魔の囁き」と捉えるべきかの判断力を身につけさせるのは、教育の力であろう。

 

☆幼児はいつだって、どんなことだって、「自分でやる!」と言って聞かない。しかし、その思いをもち続ける子どもは強い。多くの子どもは、成長するにつれて、その情熱を忘れてしまうものだ。「何も自分でやらない」となってしまっては最悪だ。

 

☆「そうしなければ分からない子どもがいる」のではなく、「そうしなければ伝えられない大人がいる」のだ。間違ってはならない。

 

☆子どもは、自分をキャラ化できるものを好きになり、繰り返しそれに接してパフォーマンスを高めていく。だから例えば、ピアノが全員上手なコミュニティにおいて、ピアノの腕前をキャラ化できない子どもたちはピアノから遠ざかってしまう。子どもたちにどのような「環境」と「人間関係」を与えるかは、周囲の大人のかかわりそのもの以上に、非常に大切なファクターとなる。

 

☆科学的には、「好き」という感情に理由などなく、むしろ好きなことに理由をつけなければならない時点で、それを本当に好きかはかなり怪しい。好きなことをやっているだけなのに、それを褒められ続けると、子どもたちの中には「自分は褒められるためにやっているのだろうか」という認知的不協和が発生してしまう。だから、その不協和を解消するために好きなことをやめてしまったり、もっと簡単に褒められる手段を選んだりしてしまうこともあるのだ。特に結果のみを褒められ続けた場合は最悪で、子どもたちは「結果を残す自分」というラベリングを守るために、思い切ったチャレンジを避けたり、嘘を重ねたりする傾向が強くなる。したがって、褒める場合は、褒める側が自分のこととして一緒に喜び、「好きなことをやった結果喜ばれた」「努力や工夫のプロセスを褒められた」という感情にしてあげると良い。どちらかと言うと、「感心する」イメージだ。大人が子どもたちに対してアウトプットする際の創意工夫は、本当にどこまでも大切である。

 

 

パラダイム・シフト(ものの見方・考え方の大きな転換)

☆人は「白黒つける」「二者択一」「二元論」という見方・考え方に捕らわれやすい。そんな事象にも、「いつ」「どこで」「どのような組み合わせで」といった条件があるし、グラデーションが存在するものである。

 

☆「平均」という考え方が、本当に適切な集団分析の方法かは怪しい。5000円の小遣いをもらう4人、5億円の小遣いをもらう1人がいたとして、この5人の小遣い平均は約1億となる。しかし、4人から見れば当然、「あの人だけ多くもらい過ぎだからだ」となるだろう。他にも例えば、「数字は嘘をつかないが、嘘つきは数字を巧みに使う。」「嘘には3種類ある。嘘とひどい嘘、統計だ。」「メディアが数を示したら割合を見ろ。割合を示したら数を見ろ。」という言葉があるように、ある一部の存在が数字を大きく動かしていたり、全体の数字を見ると平等性に乏しかったりする可能性は大いにある。平均にアプローチしても、そのビジネスが成功するとは限らない。

 

☆「残業を完全に禁止する」「複数のパートナーをもつことを許可する」といったアイディアは、権利の拡張とされることが多い。しかし一方で、「能力差を時間投下でカバーできなくなる」「魅力ある人のみが多くのパートナーをもてる」という、格差助長の面があるとも言える。

 

☆「靴は全く売れない」とも、「靴が爆発的に売れる」とも捉えられる状況は、「全員が裸足の地域」である。現象は事実としてあるが、そこに定まった価値が置かれているわけではない。何事も見方・考え方次第で価値がつけられていく。付箋紙やワクチンの発明も、失敗や怠惰だと思われた現象を、見方・考え方を変えることで大いなる価値とした好例であろう。

 

☆気を遣うということは全く悪いことではない。むしろ、誰に最も気を遣うかという順番を決めることができれば、周囲の人々全てに気を遣う習慣はなくなる。すると人生の軸ができ、ずっと楽に生きることができる。

 

☆欲しいものからではなく、失いたくないものから考えることは、非常に有効なメソッドである。

 

☆「努力しないからあの人はダメ」と決めつけるのではなく、「努力が苦手だから、努力(習慣化)できるように支援する」という見方ができれば、状況は前進するかもしれない。「そのような支援こそ大変だから、支援者を支援する」という考え方も重要であろう。

 

☆特定の行動に対する思いが強過ぎると、「頑張ることが良いとされるほど、頑張らないことが悪いとされる」「相手を受け入れなければいけないと思うほど、受け入れられない自分を責めてしまう」ことになる。完璧を目指すと、そうでない自分に落胆してしまう。バランスが非常に大切だ。

 

☆「自分の仕事やスキルは柔軟だ」というパラダイムをアドバイスされるだけで、幸福感と成果の上昇は半年続く。

 

 

アウトプット

☆「指数関数的○○」という、数学的な考え方に基づく表現は、「進化」や「成長」の偉大さを強調する手段として、最も有効なものの1つだ。指数関数的増大の例として最も印象的なのは、「1枚の紙を103回折れば、その厚さが観測可能な宇宙を越える」という事実であろう。

 

 

 

〈言葉とは「『比較』システム」である〉

美しいものと言われると、何を想像するだろう。それが、口から出るものだと限定されるとどうだろう。正直、美しいものはあまり想像できない。ただ、言葉だけは美しくなる可能性をもっている。だからぜひ、美しい言葉を使ってほしいし、言葉を美しく使ってほしい。

 

言葉とは、違いから生まれるシステムだと言われる。他と区別する必要があるから、言葉が生まれるという考え方だ。もっと踏み込めば、モノがあるから言葉が生まれるのではなく、「区別する必要があるから言葉が生まれる」とも言えるだろう。極端な例を出して考えてみよう。

 

雲を食べて生きている怪獣と意志疎通ができたとする。怪獣はこう言う。「この食べ物は△△で、これは☆☆で、○○で。」それに対して私たちはこう言うだろう。「いや、全部雲でしょ。」「同じじゃん。」

 

怪獣はこう返す。「いや、全然違うでしょ。」「いろいろな形や大きさ、厚さがあるでしょ。」

 

怪獣の言いたいことは正直分からない。なぜなら、私たちにとって雲は雲であり、それを区別する必要はほとんどないからだ。したがって、怪獣の言うような「存在」は私たちの中には存在しない。言葉で表現できない以上、それは「存在しない」と言えるのだ。

 

反対に、怪獣にこのように問いかけたとしよう。「今、飛行機が通ったね。」「こっちはヘリコプター、あっちは飛行船、この高速なのはスペースシャトル、あっ、今のは未確認飛行物体だ。」

 

怪獣はこう答える。「いや、全部同じでしょ。」「全部鉄でしょ。」

 

これに対して私たちはこう答える。「いや、全然違うでしょ。」「いろんな形や大きさ、飛ぶ向きや速さがあるでしょ。」

 

しかし、先ほどと同じことだ。怪獣にとっては、それらは雲を食べる際に邪魔な鉄の塊でしかない。それらを区別する必要はなく、邪魔な存在としてしか認識しない。私たちが「存在」として捉えている飛行手段の種類など、怪獣にとっては「存在しない」も同然なのだ。「怪獣の世界」は、「私たちの世界」とは全く違うものなのである。

 

人間と怪獣という極端な例で考えたが、似たような状況は人間同士でも起こる。ある国では兄弟姉妹を表現する際に、その存在が自分より年上か年下かが非常に重要となる。しかし、兄だろうが弟だろうが、姉だろうが妹だろうが、兄弟姉妹が「存在する」こと以外はあまり気にしない国もある。前述の国からすると、後述の国は信じられない生活様式に思えるが、後述の国では、そこを区別する必要はないのだ。

 

同じ国の人々でも同様だ。骨董品に詳しい人は、その形や模様を言葉によって区別して表現し、そこに価値を見出すことができる。しかし、一般人にとってそれらは全て同じ、ただの皿である。前者であれば「皿の世界」を探検できるが、後者であればそこに世界はなく、他の興味ある世界を目指すことになるだろう。

 

つまり人間の場合、どう価値を見出すか、どう区切るか、どう言葉を与えるかによって、世界という存在が大きく変化するのだ。いや、世界が確固としたものとして存在するのではなく、「区切り方によって、いくつもの世界が存在する」のである。言葉を増やすことこそ、より多くの「世界の想像(創造)」につながる。他の存在もおそらく、言葉のような役割を果たすもので、あらゆる世界を創造しているはずだ。

 

人間という生命体であるならば、ぜひともお願いしたい。言葉を探究しよう。

 

 

 

〈未来を切り拓く子どもたちへ〉

私たち1人の血管の全長は地球2周半と言われている。また、ヒト1人の全細胞を1列に並べた場合は、地球15周分にもなるという。人体を構成する細胞の数はおよそ40兆で、その細胞を構成する原子の数はおよそ10×1015(1000兆)。そして、原子を構成する素粒子の数はおよそ50だ。つまり、人体を構成する素粒子の数はおよそ200穣(2×1030)であるという。

 

私たちを構成するこの素粒子1つ1つが、実は大きな役割を担っている。そもそも、超膨大な素粒子の1つ1つが連携するから、私たちは身体を動かすことができ、生きられるのだ。このテクノロジーを研究し、体系化した医療のおかげで、救われた視覚が、聴覚が、味覚が、嗅覚が、触覚が、健康が、生命が、家族が、どれだけあったことか。

 

また、神経細胞も素粒子でできていることを考えれば、私たちが概念で捉えている「友情」や「愛」「勇気」などの感情も、素粒子1つ1つの存在あって生まれるものなのだ。そんな素粒子が創造する私たちの感情は、家族に、友達に、仲間に、人類に、生命に、地球に、地球外に、宇宙に、大きな影響を与える可能性をもっている。

 

素粒子1つがもたらす可能性をこのように言い切ってしまうのは、滑稽なほど大袈裟であるかもしれない。だがしかし、それを否定する要素もまた、滑稽なほど皆無なのだ。「1滴の蜂蜜は1ガロンの胆汁よりたくさんのハエを捕る」「樹木1本で作れるマッチは数百万本だが、マッチ1本で燃える樹木は数百万本」「無数の森が1個のドングリから生まれる」と言われるように、非常に小さな、小さな存在でも、その影響力はあまりに途方もなく偉大である。

 

だから、君の姿勢が国を動かすかもしれないし、君の声が国同士の関係づくりに貢献するかもしれない。君の愛が地球を救うかもしれないし、君の想像力で宇宙は発展し続けるかもしれないのだ。

 

このように、この世界のありとあらゆる「もの」は全て、他の「もの」とのシナジーによって、途方もなく偉大になる可能性をもっている。そして君は、そんな可能性が数え切れないほど集まった存在だ。これは君たちだけでなく、生命全てに言えることだ。全ての生命体は、「無限の可能性」そのものであると言って良いだろう。

 

そのような生命体が数え切れないほど集合しているのが、この地球である。地球のような星たちが数え切れないほど集合しているのが、この宇宙である。

 

繰り返すが君たちは、「無限の可能性」そのものだ。そして、世界へ多大な影響を与える可能性をもっている。世界を想像する可能性さえもっている。あらゆる世界を創造する可能性さえもっている。だから、決して傷つけ合うこと、一方的に傷つけることに時間を使ってはならない。どんなに大きな集団同士のかかわりでも、それは絶対的真理だ。隣にいるのは、あるのは、「無限の可能性」そのものなのだから。

 

君自身をアウトプットすることにこそ、時間を使おう。周囲のありとあらゆる「もの」をペップすることにこそ、時間を使おう。君の可能性を、世界の可能性を、さらに輝かせよう。

 

 

 

〈無限のパラダイム〉

皆さんが知っているようにトリックアートとは、見方によって「存在」が変わって見える不思議な芸術である。トリックアートに限らず、芸術作品の見方は鑑賞者それぞれである。だから、1人ひとりの見方の違いだけ、それぞれの芸術作品が存在する。芸術作品の見方・考え方は無限だ。

 

このことは、芸術作品に限ったことではない。日々更新されるニュースや、様々な評価、学校や会社での些細な日常まで、あらゆる現象がその対象になり得る。実はちょっと考えを深めれば、私たちの常識も、無限の見方の1つに過ぎないことが分かる。

 

例えば、あなたが「バスケットボール」という実存を見ているとしよう。あなたが見ているのは間違いなくバスケットボールであり、私もバスケットボールとしてそれを見ている。人間同士であれば、これ以上発展しないような話である。

 

しかし、立ち止まって考えてみよう。私たちが見ているバスケットボールとは、私たち人間に感知可能な「認識」でしかない。オレンジ色、球体、ラインといった特徴が光エネルギーとして脳に伝達され、バスケットボールとして認識されるのである。実際にバスケットボールという存在があるのではなく、それをバスケットボールとして私たちが認識したに過ぎない。もしかしたら、人間以上に光エネルギーを取り込む生命体は、色も形も異なる物体としてそれを認識しているかもしれない。視覚以外の認識システムをもつ生命体は、私たちに想像すらできない捉え方をしているかもしれないのだ。

 

バスケットボールという、私たちにとっての実存だけでなく、私たちにとっての概念についても同様のことが言える。「暑さ」というものを例に考えてみよう。

 

私にとって暑いと思う空間でも、暑さに強い人からすれば、そうでもないかもしれない。むしろ直前まで、私にとってさらに暑い空間にいたとしたら、彼は涼しいとすら感じるかもしれない。人によって、ある事象が、正反対の2つの概念として存在することもあり得るのだ。

 

もっと考えを深めてみよう。同じ暑いと感じる場合においても、そこには無限のバリエーションが存在する。ほんの少し暑いのか、そうでないのか。かなり暑いのか、そうでないのか。耐えられないほど暑いのか、そうでないのか。死んでしまうほど暑いのか、そうでないのか。溶けてしまうほど暑いのか、そうでないのか。前述の例のような認識システムの全く違う生命体が絡んでくると、この話は複雑さをさらに増大させる。

 

つまり、実存にせよ概念(観念)にせよ、ありとあらゆるものには全て、無限の解釈の余地があるのということだ。だから自分のパラダイムを変えれば、私たち生命体は、この世界そのものを、全く違う世界として表現できる。

 

つまりこの世界は、「ありとあらゆる生命体それぞれの多種多様なパラダイムによる、ありとあらゆる無数の世界観の集合体」とも捉えられるのだ。

 

 

 

〈史上最も偉大なパラダイム・アウトプット〉

あなたには燃え上がるような情熱があり、たゆまぬ努力と創意工夫をしていることだろう。あなたは、どこまでも果てしなく学び、思考し、想像し、創造し、あらゆるアウトプットをしているはずだ。それでも、極限まで悩み、悩み抜く。失敗することも、挫折することも、絶望することもあるだろう。それでもまた立ち上がり、さらなる努力と工夫を重ねていく。その歩みの中で、周囲の人々に、心からの感謝を伝えることもあるはずだ。あなたの人生は、表現し得ないほどの喜びと、言葉にならないほどの悲しみに満ちている。今この瞬間のあなたのパラダイム(世界観)と選択が、あなたの世界を創り上げる。そして人生とは、そのような世界創造の連続である。あなたの人生においては、あなたこそが主人公であり、あなたは常に、「無限の可能性」をもっている。

 

今、「あなたは常に、『無限の可能性』をもっている」と述べたが、実のところ、これは誇張でも何でもない。私たちは理論上、「何を(どのように)(どれほど)するか」について無限の選択が可能である。あなたの人生は、無限の選択肢からの決断の連続なのだ。今この瞬間も「無限の可能性」をもっているし、次の瞬間も「無限の可能性」をもっている。そう考えれば、あなたの人生は、「無限の可能性」そのものではないか。

 

少し考えを進めて、「無限の可能性」が人間だけに該当するのかについて、考察してみよう。

 

例えば、動植物が私たちに与えるリラクゼーション効果1つでも、そこには無限のバリエーションがあるし、その程度も無限である。私たち人間の視点から見ただけでも、動植物は無限の影響力をもつ。ありとあらゆるいかなる生命体も、無限の影響力の連続体であることを考えれば、その歩みが「無限の可能性」であることに変わりはない。

 

こう考えれば、「無限の可能性」とは、(少なくとも)1つ1つの生命体そのもののことであると言えよう。

 

「無限」「∞」という概念は、それ以上成長・発展の余地がないように思われる。私たちのような1つ1つの生命体それぞれが「無限の可能性」であることを先に示したが、例えば、チームやコミュニティ、都市、国家といったものにおける「無限の可能性」についても、(「無限の可能性」の数が超・極超指数関数的に増大しているイメージはできるものの)「無限の可能性」としか表現できない。しかし、数学的に考えてみれば、ここからさらに話を発展させることが可能になる。そのために必要なのが、無限集合における「濃度」という概念だ。

 

例えば、0〜1の間に存在する値の数も0〜2の間に存在する値の数も∞個だが、明らかに後者の方が値の数は多い。この場合、後者の無限集合は前者の無限集合に対して、「濃度が大きい」と表現される。つまり、「無限の可能性」においても、その無限集合の濃度が大きくなれば、その「無限の可能性」はさらに大きく、さらに偉大であると言えるのだ。

 

今、「無限の可能性」にもレベルがあり、無限集合の濃度が大きくなれば大きくなるほど、その「無限の可能性」はさらに大きく、さらに偉大になることについて説明した。例として、「国家」における「無限の可能性」を話題にしたが、それ以上の規模のものについても、思いを馳せてみよう。

 

思いを馳せる対象は、まず「地球」である。1つ1つの生命体が存在することができ、「無限の可能性」であり続けられるのは、当然地球のおかげである。地球が私たちの「ステージ」であることに疑いの余地はない。

 

しかしながら、すでに科学が解き明かしているように、地球がこの世界の中心というわけではない。地球は「太陽系」の一員であり、その中心は太陽である。私たちの地球は、太陽を中心に周回していた微惑星同士の衝突によって形成されたと言われる。太陽がなければ、私たちの地球は存在し得なかったのだ。私たち生命体が誕生できたのは、(生命の土壌となる自然が奇跡的に形成されたという意味でも)疑いなく太陽のおかげであり、太陽系というさらに大きな次元のステージのおかげである。

 

またさらに大きな次元へと話を進めよう。太陽系は「銀河」に属している(地球は「天の川銀河」に属する。)が、実は太陽のような恒星は、銀河に数千億個も存在するという。銀河は、それほどまでに大きく、偉大なステージなのだ。ただ、その銀河すら、「銀河団(銀河群)」と呼ばれる(場合によって1000個もの銀河が集まった)銀河の集合の1つであり、そのような銀河団も、「超銀河団」と呼ばれる、より大きな構造(1000億光年のものもある。)の一部である。

 

では、そのような超銀河団が存在する「キャンバス」とは何なのか。それこそが、「宇宙(ユニバース)」である。注目すべきは、その広大さだ。「私たちに観測可能な宇宙」をエネルギー密度で見た場合、星や銀河・銀河団・超銀河団は、全体のエネルギーの0.4%でしかない。「地球の表面が全て砂粒で覆われていたとしても、観測可能な星の数はそれより遥かに大量だ。」「星の中には、太陽の2000倍以上の大きさのものもある。」と言われるのに・・・である。しかしこれは、残り99.6%が宇宙空間の全てであることを意味しているわけではない。

 

「現在私たちが存在する宇宙」の開闢は、真空中で相転移が生じ、「インフレーション」を経て、「ビッグバン」が起きたことによると考えられている。実際、宇宙は現在も膨張し続けているのだ。さらに驚くことに、その膨張速度は光速を凌駕する。「インフレーション」とは、10-36秒の間に、原子核程度の大きさの領域が、半径138億光年の大きさになるほどの指数関数的膨張のことを指し、その膨張スピードは、光速の3×1022倍であったと試算されている。現在は当初より緩やかであるものの、その膨張速度は光速の何倍にもなる。物体は光速を越えて移動することはできないが、空間はそのルールに縛られないのである。

 

この光速を越えての膨張が、さらに驚愕の事実を生む。先ほど「私たちに観測可能な宇宙」という表現を用いたが、それはつまり、「私たちに観測不可能な宇宙」領域が存在することを意味する。空間が光速を越えて移動するならば、私たちまで決して届かない光が存在することになるからだ。(そのような光の始点自体が光速を越えて遠ざかっているため、「私たちに観測可能な宇宙」の全貌は、半径460〜470億光年になると予想されている。)では、「私たちに観測不可能な宇宙」までを含めた、「現在私たちが存在する宇宙」は、どれほど広大なのだろうか。

 

信じられないことに、その答えは「無限」であるようだ。「『現在私たちが存在する宇宙』は無限の大きさをもち、『私たちに観測可能な宇宙』を無限個内包する」と結論づける研究も多くある。その無限個の中には、あなた自身どころか、あなたのいる地球、その地球が存在する銀河・銀河団・超銀河団も無限に存在する。果ては、「私たちに観測可能な宇宙」そのもののドッペルゲンガーすらも、10の10118乗〜10の10124乗個に1つの割合で、無数に点在しているという。奇跡が無限に重なったようなことも、「無限」では無限に見られる。「無限」を侮ってはならない。(これ以降、「宇宙」という言葉を、無限の大きさを持つ空間を指すものとして扱う。)

 

話はこれで終わりではない。実は現代科学において、「『現在私たちが存在する宇宙』とは別に、違う『宇宙』がある」という可能性が示唆されている(しかもその可能性はかなり濃厚である。)のだ。宇宙論における、「多元宇宙(マルチバース)」理論である。「インフレーションで誕生するのは、『現在私たちが存在する宇宙』だけではない」という考え方だ。この説によると、インフレーションは、時空のありとあらゆる無数の点で起きるもの(「永久インフレーション」)だという。つまり、時空においては、ありとあらゆるバリエーションの「宇宙」というキャンバス(無限の大きさをもつ空間)が、泡のように無限に誕生し続ける・・・というのである。

 

「現在私たちが存在する宇宙」も無限であるなら、時空の中で複数の宇宙は共存しないように思える。しかし、外部から見たら有限の空間も、内部から見たら無限になり得る。この点については誰しも理解が追いつかないだろうが、無限の空間が無限に存在できることは確かなようだ。

 

「多元宇宙」理論は、正直あまりにも突飛なアイディアに思える。しかしながら、広く知られているように、私たちの宇宙や地球は、あまりにも奇跡的な偶然を重ねて、生命を誕生させている。生命体も言ってしまえば、単なる原子の組み合わせである。それなのに、現在のような世界が形成されているのだ。多くのブロックを無造作に床に投げて、何らかの形が自然に生まれることはほとんどないだろう。だが、現実には宇宙規模でそれが起こっている。この世界は、あまりにも生命体にとって都合が良いように、ありとあらゆる値が微調整されているように思える。私たちが住む宇宙自体、「無限の奇跡」で成り立っているのだ。

 

そうであれば、奇跡が起こっていない他の空間が無数にあった方が、むしろ自然に思える。見方を変えてみると、感覚的に「多元宇宙」理論が支持されて然るべきではなかろうか。

 

話を戻そう。「永久インフレーション」によって、「宇宙」という名のありとあらゆるキャンバス(無限の大きさをもつ空間)が、無限に誕生し続ける「背景」とは何なのか。現段階の科学で背景(最大の次元)だと示唆されているのは、「場(フィールド)」と呼ばれる(専門的には「インフラトン場」と呼ばれる)時空である。

 

イメージとしては、「場」は真空であると考えて差し支えない。しかしながら科学的には、真空は「本当に何もない」のではなく、「エネルギーをもつ」ものと定義される。科学者の多くは、この「場」が、(「本当」に)無限に続いていると結論づけている。

 

「場」にまで話題を広げれば、その次元は私たちの世界観を、遥か果てしなく、遥か限りなく超越しているように思われる。ただ、事実として言ってしまえば、「私たちは『場』の一部」なのである。裏を返せば、「場」という「無限の可能性」に比べれば、私たちという「無限の可能性」の歴史など・・・ということである。

 

しかしながら、自分たちの小ささを嘆き続けても仕方ない。むしろ、そのようなパラダイムこそ真逆に転換するべきである。では、「『場』という背景に描かれた『多元宇宙』の住人」である私たちは、具体的に、どのような意識で生きるべきなのだろうか。

 

私が思うに、「Awe体験」がそのキーワードになる。「Awe体験」とは、「大自然や大宇宙の広大さを前にして、それらに畏敬の念(感謝)を抱き、自分の小ささを感じるような体験」のことである。

 

Awe体験」中は、謙虚な気持ちになると同時に、この上ない感謝の気持ちがもたらされる。加えて、脳の機能が超飛躍することで、私たちのパフォーマンスは数千倍、いや、時にはそれすら軽く上回るほどに向上するという。また、非常に驚愕すべきことに、「Awe体験」に付随して、幸福感をもたらす4つの脳内物質(セロトニン•オキシトシン•ドーパミン•エンドルフィン)の超大爆発的相乗効果が生まれ、私たちは、健康増進効果(過剰な炎症性サイトカインを抑制し、神経を強化し、著しい抵抗力を与える。)と、ストレス軽減効果(1回の体験で、PTSDに苦しむ人々のストレスレベルが30%軽減され、その効果は1週間続く。)も享受できるのだ。この「Awe体験」は、言い換えれば、「究極のポジティブ・シンキング」であり、「究極のフロー(ゾーン)」であり、究極的に言えば「究極の悟り」である。

 

今あなたは、自分を包み込む限りない世界を見てきた。そして、私たちという「無限の可能性」が、「場」の一部を担っていることも理解してくれた。ここで大事なのは、「自分自身が大きくなるほど、自分が存在する世界も広がり、大きくなる」ということだ。「『場』から見たら、自分など極限まで取るに足らない小さな存在だ。それでも、これだけのことができるんだ!」という気持ちは、自分同様に努力と工夫を重ねる他者と、その他者がもつ「無限の可能性」の尊重につながるし、自分を包み込む自然や宇宙を、さらに偉大なものと認識することにつながる。それに伴う圧倒的な感謝が発生し、さらなるパフォーマンスアップが生まれることは説明するまでもない。

 

つまり、他者や環境を尊重し、絶えず感謝をアウトプットしながら、「もっと成長しよう!」と、努力と工夫を積み重ねる人々こそが、さらに圧倒的な「Awe体験」を享受できるのだ。自分を成長させ続けることで、あなたが存在する世界は、もっと広く、もっと大きく、もっともっと偉大になる。

 

だからこそ、努力しよう。工夫しよう。挑戦しよう。そして、成長しよう。大きくなろう。Good to Great!(「良い」から「偉大」へ!)

 

 

 

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